昨日の記事の続き、という感じで書きます。


食事の内容にこだわることに違和感を感じたもう一つの
理由は、無私ということを学ぶ修行をしているんだったら
「食にこだわる」というのは明らかに間違っているん
ではないか?と思ったからです、


ゴータマブッダが示された人格完成への10の徳。
(徳=パーラミー、パラメーターの語源だそうです!)

その中にネッカマ(出家)のパーラミーがあります。


僧侶は托鉢で食事を施してもらう。
もし、お肉や魚が施されればそれを食べる。
頂く物はすべて感謝を持っていただく。

インドやミャンマーでは今でも托鉢で食事を施してもらう
僧侶たちの姿があります。自分の持ち物、というのは持たない
ことで、自我を滅却するという修行を積みます。

そう考えると、精進料理ってどうなの?

確かに、中国や日本で托鉢で食べ物を得るといのは大変に
非現実的だと思います。だから、お寺で精進料理、というのが
あるのはそれも現実としては仕方ないんだと思う。

・・・などと批判めいたことを心に思っているくせに
私自身はというと「こういう食事のほうが体が楽だから」
という理由で食事の内容にこだわりを持っていたり、食材も
選ぶ、調理の仕方も選ぶ。

そしてそれが体に楽じゃない食事だったらそれを嫌悪している。

はぁ~、自分のことは棚に上げて話などしているようでは
なんと愚かなことでしょう・・・まだまだ先は長いとため息
ばかり。


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家もない、衣服も持たない、食べ物は施してもらう。
普通に社会人としてこの世の中で生活していく我々は
これほどのことは難しいです。

しかし、ヴィパッサナーの瞑想センターでの10日間コース
の間、私たちはこの徳を積む修行ができます。

10日間コースに参加するのに参加費は徴収されません。
全てはこの瞑想法によって恩恵を受けることができたとの
感謝の思いからの寄付によって運営されています。

指導をしてくださる先生も、一切報酬を受け取られません。
そして、食事を作ったり、参加者の身の回りのお世話をする
方たちもすべて奉仕です。

ですから、私たちが宿泊する施設も、センターで食べるものも、
教えてもらうことも、世話をしてもらうことも、すべて他人から
の施しです。


最初にコースに参加したとき、なぜこんなことが可能なのか、
全く理解ができませんでした。しかし、コースに参加する度に、
そして、自分が奉仕をする度に、善意の車輪というのはこうやって
回っていくのだな、ということを少しづつ理解できるように
なりました。


お金を稼いで、自分や家族の生活を支える社会人にとって、
自分の持ち物に執着しないということはとても大変なことです。
この部分の修行はなかなか進まない(>_<)

でもその修行をできる恵まれた機会が用意されているのは
本当にありがたいことです。


健康な食事、にこだわる。
修行の妨げにならない食事、にこだわる。
体が楽な食事、にこだわる。

笑っちゃうほど私はまだまだたーくさんこだわって
います(^-^)。