1月30日、2月2日のお料理クラス正しい、ってこと

2013/01/22

優柔不断

私のことを知っている方なら、「私」のイメージと全く相反する
言葉と思うんではなかろうか、とすら思う「優柔不断」というワード。

即断、即決、即行動、が私のイメージじゃないかな?傍から見たら。
考える、熟慮する、ということはあっても、「決められない」ということは
今まであまりなかったように思います。

その私が最近、
「あれ?私、考えがあっちに行ったり、こっちに来たりしてない?」
「決めたはずのことをまた考え直して違う行動とってる??」
「あれやろう、これやろう、とちょこまか動いて結局何をやってんだ??」
ということが、立て続けに起こってます。

「効率悪いな~、最近。なんか全然地に足ついてない感じ~」って思った
次の瞬間「あーー、私、迷ってるんだ、決めることが出来ないんだ!」って
気が付いた。

「決めることが出来ない」。今まで自覚して感じたことのない感情です。
(もちろん、自覚しないで迷路にはまってたことはたくさんあると思うけど)

また新たな経験の扉が開いた感じ。
生きてるのって、楽しいね~(^-^)って思います。

私にとっての「決められない」っていうのは、言葉を
変えると「どっちが自分にとって正しいのかが分からない」という
こと。

どちらが善なのか、悪なのか。
どちらが正解なのか、間違いなのか。
それが判断できないから迷ってるんだと思うんだけど、
うーん、そもそも最近、「どっちが正しい、とかないんじゃん??」
って思うことが多い。

というか、正否とか善悪とか、そういう両極からなる考え方
自体どうなんだ?って思うことが多い。生きていくってことは
全ての瞬間で相反する考え方の一方を選択し、他方を選択しない
という行動を繰り返しているわけなんだけれど、「どちらで無くては
ならない」ということはないんじゃないか、と思うのです。

何か方針、とか、理念とか、そういう判断基準になるものが
存在して初めてそれに基づいて判断する、ということをするのだから、
何かの事実自体には色はついてないっていうか。色を付けるのは自分
だけ、っていうか。

例えば甘いお菓子をいっぱい食べることが善か悪か、なんて人それぞれ。
健康を害してる人とか、どうしても減量したい人とか、そういうことを改善
したいっていう人には「悪」かもしれないけど、それを食べられることが
豊かさの証だったり、今日はお祝い!だったり、愛情表現だったり、
っていう場合、それを「悪」っていうのはどうなの、だよね。

だからと言って、自分の健康を脅かすことに無知なままよりも、自分を
健やかに保つ方法は知っている方が良いようには思うけど、それを
知らないことが悪いかっていうと、知らないからこそ出来る経験っていう
のがある。身体に負担をかけるものをたくさん食べ続けたりして病気に
なったとしても、その経験を通して初めて気づくことが出来ることがあるん
だから、それもありじゃん、ってことだし。

そう考えていくと、何が良いとか悪いとか言ってること自体は意味がなくて、
それよりも、自分自身が何を「良い」と思い、何を「悪い」と思って生きてるのか?
に気が付いていくことだけ、のような気がする

去年の10日間瞑想コースに坐ってる時に、私の中にある「こうなるべき」
とか「こうなるはず」という思考パターンの存在に気が付いて、「おー、
私はずっとこういう色眼鏡をつけて生きてきたんだな」ってことに気付いた。

「体が健康なことが善」
「心が穏やかなことが善」
「この世的に見た幸せな生活、っていうのが善」
とかね。自然とその思考パターンに支配されてる。

今までも、健康なことだけが善ではないよな、とかって頭で理解は
してたけど、自分がどっぷり「善悪」を判断するその思考パターンに
はまってるという現実に気づいた時は、結構「お~っつ!!」って感じ
だった。

今優柔不断になってるのは、そういう思考パターンに気づいたから
のような気がしてる。今までは迷わず自分の「善悪判断システム」が
即起動してたところで、そのシステムが働かなくなってきたんだと
思う。

ということで、今私は結構優柔不断。
そんな私をエンジョイ中。
(とはいえ、周りの方たちにはそれでも即決に見える、と言われて
ますけど・・・笑)。





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