庭師と弁護士尊厳と自由

2016/06/09

「苦しいから生きていることが判る」

整体、という考え方の第一人者といえば、野口整体の野口晴哉(はるちか)さん。

私は、「風邪の効用」や「整体入門」を読んで、この方の身体や心を捉える全体論的な感覚に共感し、今でも時々それらの本を読み返しています。


Facebookに【やさしい野口整体】というページがあり、先日紹介されていた野口晴哉さんの言葉にとてもたくさんの気づきをいただきました。

まず、その文章を紹介します。



〜ここから引用〜


《野口晴哉著 体運動の構造第二巻より》

裡(うち)の感覚

この間、ガスの中毒で殆ど死ぬ間際まで行った女の人がおりました。彼女は息を吹き返して、「あんなに気持ちのいいことはなかった。あのまま死んでしまうのなら、死ぬのは実に楽ですね。けれども息が戻ってからというものは急に苦しくなった。こんなに苦しいのなら生きるなんて厭なことだと思いました」と言っておりましたが、楽になるということは、死んだということと同じなのです。楽になることを突き詰めた処は死なのです。

生きるのは苦しいのです。だから、異常があるのに異常を感じなくなったというのは、体が鈍ってきたということで、苦しいというのは、生きようとする働きが体の中に起こっているということなのです。

楽になるように痛みを止めるとか、苦しいのを麻痺させるとかいう考え方は大変に可笑しい。生きていれば苦しいのが当たり前で、苦しいから生きていることが判るのです。

我々が活元運動や愉気をしておりますと、だんだん感覚が生きてきます。そして少しの異常でも感じるようになります。

痛いという処に愉気をしていると、だんだんそれが(痛みが)取れて、そこに当たっていた手が 自然に離れて他に行く、そしてそこでまた新しい感じが起こる。

三年前、あるいは五年前に痛めた処が、また同じように痛みを感じ出すということがよくあります。それは、体が恢復して痛みを感じられるようになったからです。

今まで感じられなかったものが感じられるということは進歩です。風邪を引けば、そこで偏り疲労が調整されるのです。引かなければ、もっと長い間その偏りが続くのです。

整体にするということは、体の持っている感覚を活かしていくことであり、体が生きる方向にいくようになるということは、それ自体が恢復を示しているのです。それを病気を背負っているような人達は、そういう新しい異常感を迎える心の準備がないのです。

〜引用ここまで〜



「生きていれば苦しいのが当たり前で、
苦しいから生きていることが判るのです」

そう、そうなのです。
そうなのです。
完全に言い切ってるこの言葉を目にして、
すごく胸に響きました。

そして、苦しくてよいのだと、
苦しみかに目を背けたり、
苦しみからもがき逃げようとするのではなく、
それを観察する。
平静な心でそれを観察する。

ヴィパッサナーの修業を、
また一つ言葉で納得することができました。



生きることは苦しみで、
しかも、その苦しみはすべて自分が生み出している
ということが根底なのです。
 
それが理解されていない人の言葉は、
なんだか薄っぺらいポジティブ思考のように
感じるのです。

自然の摂理を知恵として知っている人の言葉は、
ずしっと胸に響きます。






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