Healthy,Tasty&Wise 心地良い毎日をすごすために

気づきと平静さのある暮らし。 千葉県の長南町にある古民家に移り住みました。

ヴィパッサナー瞑想

”暮らしの中に、小さなこだわりを重ねることで得られる喜びがある”

「食」と「住」の”快適”を積極的に楽しみたい!という人が
集う場を作っています。

・東京・千葉古民家での料理教室(ベジタリアン)や、バッチフラワーレメディのセミナーや個人セッション、住空間コーディネートについてのインフォメーションはこちらのブログの他、下記↓ウェブサイトにてお知らせしております。

http://www.healthytastyandwise.com

「ここに来ると、本気で生きるためのヒントが手に入ります」

インドから戻りました

2月の終わりに日本を出発し、
昨日4月22日に帰国しました。


今回の旅の目的は瞑想修行。

インドのムンバイ近郊、イガトゥプリにある
ヴィパッサナー瞑想センター
Dhamma Tapovanaにて、45
日間の瞑想コースを坐り、昨夜、無事に長南町の家に戻りました。



留守を守ってくれていた瞑想仲間達のおかげで、快適な家に帰って、帰宅直後も美味しいごはんを用意してもらって、とても幸せです。


鶯の鳴き声聞きながら、のんびりと日常に戻りつつあります。少しずつ、身体も慣れていくでしょう。


今回の修行も、とても有意義でした。


本当の幸せとはなにか?(苦しみからの解放、解脱にむけて歩む意味)をおなかの底で感じた日々でした。


そして、本当の幸せために、自らの体験を通じて一歩一歩進んでいくための修行法に出会えたありがたさが身に染み、こらからも精進したいと思います。


生まれてしまったからには必ず味わう苦しみ。


病。

老い。

死。


そして、


おきて欲しいことがおきない苦しみ

おきて欲しくないことがおきる苦しみ


すなわち生きていることは全てが苦しみなのだということの理解が進みました。


では、幸せとはなにか?


この執着の原因を完全に手放すこと、

そして、輪廻の輪から外れること、


そのための修行なのだということが

ようやく(少し)わかりました。


最上の幸せ(マンガラ)とはなにか?と問われて

ブッダはこうお答になりました。


ーーーーー


Suttanipāta(スッタニパータ)

第2章 4 こよなき幸せー中村元訳



 わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。


258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いて下さい。」


259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。


261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。


262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。


263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。


265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。


266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。


267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。


268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。


269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。


ーーー


日常で使われる意味の「幸せ」は、

それを味わったときに次の執着を生み、

それが次の苦しみの種になる。


それが一瞬一瞬絶え間なく続き、

私たちは苦しみの輪から外れることができない。


その車輪の回転を止める方法を身につけるしか、苦しみから解放されることは不可能であるということを、実感を持って感じることができ、もう「降参」という気持ちです。


本当の幸せ=マンガラ、を感じられる日々を過ごしていけたらと思います。



完璧な、平静さ

覚え書き。

毎朝、毎晩の1時間の瞑想は、
心の筋トレ。

これを欠かすと、途端に筋力が落ちる。

瞑想して、心がクリーンになったと感じるのは、結果であって目的ではない。楽になる、軽くなる、それが目的となったとき、苦しみははじまる。

平静さを鍛える訓練でしかないという思いで取り組んではじめて、心の波は鎮まる。

ほんの小さな認識の違いは、辿り着く場所に大きな違いをもたらす。その微かな違いに気がつく能力も、日々の鍛錬から生まれる。

常に、常に、気づき続ける訓練。

寂しさ

イギリスの瞑想センターにて、30日間のヴィパッサナー瞑想コースに参加しているうちの旦那さま。

8月1日から始まったコースは、もうすぐ終わります。30日間の沈黙が解かれ、いまごろ久しぶりに人との会話をしていることでしょう。日常生活に戻るリハビリ期間です。

(と、思っていたら、Lineで電話がかかってきました!1カ月ぶりに会話しました〜🎵便利な世の中になりましたね。)

イギリスに旅立つ時、彼に「頑張ってね!」というと「僕はコースは入ってしまえば修行に没頭するだけだけど、きっと裕子の方が大変だよ。頑張って。」と逆に励まされました。

去年、一昨年は私が1人でイギリスに行き30日間コースを坐りました。その時彼は日本で1人お留守番でした。

私たち夫婦は、どこに行くのも一緒、なにをするのも一緒、というぐらい金魚のフンな夫婦です(笑)。

だからかな?今回彼が坐っていた1カ月のコース期間中、まるで自分が瞑想してるぐらい苦しかった、辛かった〜。次から次へと自分の中のネガティビティが湧き上がってきて、そんな中で普通に日常生活送るのは簡単ではありませんでした。

夫婦って本当繋がってると思います。距離がいくら離れてても、一体なんだと思います。

夫婦に限らず、家族、友人、ほんとはすべてのものと繋がってるんだと思います。


1人でいる間、苦しかったけど、できる限り平常心で過ごせるように努め、やることを淡々とやる。こんな、簡単なようなことが、ほんとに難しいのだなぁと実感しました。


私が苦しかった原因は「寂しさ」なんだと思います。寂しいという根本から、いろいろなことが派生して、どんどん苦しい方向に向かってしまう。

夫とも良く話しますが、人間、この「寂しい」という感情が一番厄介なのではないでしょうか?


人は人と繋がり、助け合い、笑顔を交わし、涙を分かち合い、そうしてようやく自分らしくいられるのではないかと思います。


というか、本当はみんなみんな繋がっているのに、それを忘れてしまっているのかもしれませんね。


1人1人違う考えや、個性があるけど、そんな多様性に富んだ中で生きていられることが、とても幸せだとかんじます。











バッチフラワーレメディー。
草花から作られたレメディーは、
感情に作用して、メンタルバランスを
とるのに役立ちます。

この1カ月は、かなりお世話に
なりました。

「旦那さん」

【旦那】という言葉があります。

この言葉がサンスクリット語の
【ダーナ】から来ているということを
今、知りました。

「ダーナ」という言葉は、
ヴィパッサナー瞑想を実践する中で
私にとって馴染みのある言葉と
なりました。

日本語では「与える」「贈る」「施す」
という意味です。

今では「だんな」というと
夫のことをさす言葉として良く
使われていますが、もともと旦那様
とは「パトロン」的な存在です。

私はこのパトロンという存在が
とても好きです。

自分はこういうことが出来る存在で
ありたいと何故か思っています。
これは信博さんの影響がとても
大きいと思います。

(旦那の影響で旦那っていいなって
思うようになった、って、
なんだかややこしくてすみません…(笑))

とはいえ、
こういう発想ってやはり男の方
ならではの懐の深さな感じがします。

なので、私は「旦那」でありたい
というよりも、「旦那」という存在を
尊敬し、励ましたいという感じです。


※※※※※※※※※※※※

10年ほど前に初めてヴィパッサナー瞑想の10日間コースにインドのムンバイで参加した時、コースが終わって"Dana(ダーナ)"の看板が下がった場所に参加者がたくさんの人が列になって並び、満面の笑みで幸せそうに寄付をしているの見ました。

当時の私は寄付をするという習慣も発想も全くなかったので、ヘェ〜寄付をするんだぁ、と全く他人事な感じでした。

ヴィパッサナー瞑想の10日間コースは参加費というのはかかりません。10日間の食事も宿舎も自分が参加費を払うから受け取るのだということではなく、以前コースに参加した人の寄付のお陰で受け取っているということなのです。

なので、コースを終えて自分がこのコースから恩恵を受けることが出来たと実感した人は、他の人も自分が受けたのと同じ機会が得られますように、という思いで寄付をします。額はいくらでも構いません。

参加費を払うのではなく、寄付でのみこのコースが成立しているというのはとても大切なことなのです。

なぜなら、このコースが寄付でのみ運営されていることで、参加者はこのコースに参加している間「出家の徳(ネッカマのパーラミー)」を積む機会を得られるからです。

自分がお金を払ったから食事や宿舎が使えるのではなく、食べものも、雨風しのぐ建物も誰かの好意によって与えてもらっているということ。これはとても大切な経験です。少なくともコースの間は出家した僧や尼僧と同じ修行が出来るのです。

私は初めてコースに参加した時、全くこの事を理解していませんでした。寄付をするという発想すらありませんでした。

つまり、私は「感謝する」という発想が全くなかったのです。

自分1人で生きているかのような錯覚。誤解。無知。

そんな風に思っていたとは、顔から火が出るほど恥ずかしい。なんと厚顔無恥なんでしょう…

以来、少しずつ、少しずつ、自分が受けた幸福は、循環させることが大事だと自覚できるようになりました。まだまだ自我が大きすぎますが、本当に少しずつ薄皮をはがしていきたいと思います。


かつて日本にもっとたくさんいたであろう旦那さん、という存在。励まし、応援し、身銭をきってみんなの豊かさや満足のために奉仕する気持ち。

その心意気に、私はとても感動します。

お金の絶対値ばかりが重視され、その本質が見失われているような世の中ですが、与えることの豊かさや応援することの大切さを忘れないでいたいなと思います。


「苦しいから生きていることが判る」

整体、という考え方の第一人者といえば、野口整体の野口晴哉(はるちか)さん。

私は、「風邪の効用」や「整体入門」を読んで、この方の身体や心を捉える全体論的な感覚に共感し、今でも時々それらの本を読み返しています。


Facebookに【やさしい野口整体】というページがあり、先日紹介されていた野口晴哉さんの言葉にとてもたくさんの気づきをいただきました。

まず、その文章を紹介します。



〜ここから引用〜


《野口晴哉著 体運動の構造第二巻より》

裡(うち)の感覚

この間、ガスの中毒で殆ど死ぬ間際まで行った女の人がおりました。彼女は息を吹き返して、「あんなに気持ちのいいことはなかった。あのまま死んでしまうのなら、死ぬのは実に楽ですね。けれども息が戻ってからというものは急に苦しくなった。こんなに苦しいのなら生きるなんて厭なことだと思いました」と言っておりましたが、楽になるということは、死んだということと同じなのです。楽になることを突き詰めた処は死なのです。

生きるのは苦しいのです。だから、異常があるのに異常を感じなくなったというのは、体が鈍ってきたということで、苦しいというのは、生きようとする働きが体の中に起こっているということなのです。

楽になるように痛みを止めるとか、苦しいのを麻痺させるとかいう考え方は大変に可笑しい。生きていれば苦しいのが当たり前で、苦しいから生きていることが判るのです。

我々が活元運動や愉気をしておりますと、だんだん感覚が生きてきます。そして少しの異常でも感じるようになります。

痛いという処に愉気をしていると、だんだんそれが(痛みが)取れて、そこに当たっていた手が 自然に離れて他に行く、そしてそこでまた新しい感じが起こる。

三年前、あるいは五年前に痛めた処が、また同じように痛みを感じ出すということがよくあります。それは、体が恢復して痛みを感じられるようになったからです。

今まで感じられなかったものが感じられるということは進歩です。風邪を引けば、そこで偏り疲労が調整されるのです。引かなければ、もっと長い間その偏りが続くのです。

整体にするということは、体の持っている感覚を活かしていくことであり、体が生きる方向にいくようになるということは、それ自体が恢復を示しているのです。それを病気を背負っているような人達は、そういう新しい異常感を迎える心の準備がないのです。

〜引用ここまで〜



「生きていれば苦しいのが当たり前で、
苦しいから生きていることが判るのです」

そう、そうなのです。
そうなのです。
完全に言い切ってるこの言葉を目にして、
すごく胸に響きました。

そして、苦しくてよいのだと、
苦しみかに目を背けたり、
苦しみからもがき逃げようとするのではなく、
それを観察する。
平静な心でそれを観察する。

ヴィパッサナーの修業を、
また一つ言葉で納得することができました。



生きることは苦しみで、
しかも、その苦しみはすべて自分が生み出している
ということが根底なのです。
 
それが理解されていない人の言葉は、
なんだか薄っぺらいポジティブ思考のように
感じるのです。

自然の摂理を知恵として知っている人の言葉は、
ずしっと胸に響きます。




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