ヴィパッサナー瞑想
2017/04/23
インドから戻りました
留守を守ってくれていた瞑想仲間達のおかげで、快適な家に帰って、帰宅直後も美味しいごはんを用意してもらって、とても幸せです。
鶯の鳴き声聞きながら、のんびりと日常に戻りつつあります。少しずつ、身体も慣れていくでしょう。
今回の修行も、とても有意義でした。
本当の幸せとはなにか?(苦しみからの解放、解脱にむけて歩む意味)をおなかの底で感じた日々でした。
そして、本当の幸せために、自らの体験を通じて一歩一歩進んでいくための修行法に出会えたありがたさが身に染み、こらからも精進したいと思います。
生まれてしまったからには必ず味わう苦しみ。
病。
老い。
死。
そして、
おきて欲しいことがおきない苦しみ
おきて欲しくないことがおきる苦しみ
すなわち生きていることは全てが苦しみなのだということの理解が進みました。
では、幸せとはなにか?
この執着の原因を完全に手放すこと、
そして、輪廻の輪から外れること、
そのための修行なのだということが
ようやく(少し)わかりました。
最上の幸せ(マンガラ)とはなにか?と問われて
ブッダはこうお答になりました。
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Suttanipāta(スッタニパータ)
第2章 4 こよなき幸せー中村元訳
わたしが聞いたところによると、──あるとき尊き師(ブッダ)はサーヴァッティー市のジェータ林、<孤独な人々に食を給する長者>の園におられた。そのとき一人の容色麗しい神が、夜半を過ぎたころジェータ林を隈なく照らして、師のもとに近づいた。そうして師に礼して傍らに立った。そうしてその神は、師に詩を以て呼びかけた。
258 「多くの神々と人間とは、幸福を望み、幸せを思っています。最上の幸福を説いて下さい。」
259 諸々の愚者に親しまないで、諸々の賢者に親しみ、尊敬すべき人々を尊敬すること、──これがこよなき幸せである。
261 深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、ことばがみごとであること、──これがこよなき幸せである。
262 父母につかえること、妻子を愛し護ること、仕事に秩序あり混乱せぬこと、──これがこよなき幸せである。
263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。
265 尊敬と謙遜と満足と感謝と(適当な)時に教えを聞くこと、──これがこよなき幸せである。
266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の(道の人)に会うこと、適当な時に理法について聞くこと──これがこよなき幸せである。
267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。
268 世俗のことがらに触れても、その人の心が動揺せず、憂いなく、汚れを離れ、安穏であること、──これがこよなき幸せである。
269 これらのことを行うならば、いかなることに関しても敗れることがない。あらゆることについて幸福に達する。──これがこよなき幸せである。
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日常で使われる意味の「幸せ」は、
それを味わったときに次の執着を生み、
それが次の苦しみの種になる。
それが一瞬一瞬絶え間なく続き、
私たちは苦しみの輪から外れることができない。
その車輪の回転を止める方法を身につけるしか、苦しみから解放されることは不可能であるということを、実感を持って感じることができ、もう「降参」という気持ちです。
本当の幸せ=マンガラ、を感じられる日々を過ごしていけたらと思います。
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「苦しいから生きていることが判る」
完全に言い切ってるこの言葉を目にして、
すごく胸に響きました。
そして、苦しくてよいのだと、
苦しみかに目を背けたり、
苦しみからもがき逃げようとするのではなく、
それを観察する。
平静な心でそれを観察する。
ヴィパッサナーの修業を、
また一つ言葉で納得することができました。
生きることは苦しみで、
しかも、その苦しみはすべて自分が生み出している
ということが根底なのです。
なんだか薄っぺらいポジティブ思考のように
感じるのです。
自然の摂理を知恵として知っている人の言葉は、
ずしっと胸に響きます。