学び 気づき・・・、ヴィパッサナー瞑想

2012/04/13

千載不朽

私は3人兄弟の末っ子で、多くの大人に囲まれて育ちました。そして都会
育ちの私の周囲には同じぐらいの年の子供はあまりいませんでした。

そんな環境でしたから、ソツなく、(ずる)賢く、大人っぽい子供でした。
要領が良くて、人並みか、それ以上になんでもこなしてしまう。
経験が伴わないのに、出来てしまう。

私がなぜ要領よくソツなくこなせる人だったかと言うと、「周囲の大人が
そう語るのを聞いて」、あるいは「本の中でそう語られるのを読んで」
「だったらこうやればうまく出来るに決まってるじゃない」という計算の
もと、物事に取り組んでいたからです。

人の言ったことをベースにしているから、大きく失敗することもない。
かといって、自分で試行錯誤しているわけじゃないから、大きく満足を
得ることもない。

頭でっかちで、精神的には満足が得られない、という大変望ましくない
状態です。


私が15歳ぐらいだったとき、祖父がお年玉の袋に「知識は千載不朽の宝なり」
というような言葉を書いてくれたことを覚えています。その頃の私は学校での
成績が良かったので、祖父はそれを喜んでくれたのだと思います。

そんな些細なことをはっきりと思い出したのは、インドでのヴィパッサナー
瞑想10日間コースを初めて終えた時でした。

その時私はこう思ったのです。

「私が本当に得たいのは『知識』ではなく『智恵』なのだ」と。
そして、この瞑想法は私に欠けている「経験から得る知恵」
だけが自らの宝になると言っている。「私はやっと自分が求めていたものに
出会うことが出来た。」と。


子供のころから、ごく最近まで、私の中には「言われなくてもわかってる(怒)」
という気持ちが相当ありました。人から何かを指摘されたときに、大きな
反発心としてでてくる気持ち、それが「わかってるよ」「承知してます」
「言われなくても知ってるよ」という気持ちでした。

プンプン怒って、身体が緊張して硬くなって、とてもじゃないけどリラックス
してるとは言えない状況を引き起こしてました。

周りの人が私の行動を見て、あるいは言葉を聞いて、何かを指摘してくれる
とき、明らかに「わかってない」って感じるからこそ言ってくれてるのに(笑)、
そんなありがたい機会にも関わらず、お構いなしに私は「わかってる」って
反発してた。


本当に分かってたら、”分かっている人”の言動が取れるはずだけど、
分かってないから、分かってないように見えるし、事実分かってない。

そんな、明らかに腑に落ちてない状態にもかかわらず、私が
「分かってる」って思い込んでたのは、他人から聞いたから、
あるいは他人の経験を本によって得たから。

「それって全然「『分かってない』っていうんだよ・・・(>_<)」っていうことに、
瞑想をやるようになって、気が付いてしまった。
なんとも、顔から火が出るくらい恥ずかしい。

でも、すごく楽になったんですよね、私は何もわかってない。
だから、一歩一歩経験していけばいいんだ、って思って。

このことに気が付いて以来、数年間、私は全く本を読まない人と
なっていました。まったく読みたくなくなってしまったんです。
全然興味がわかない。


なぜかと言えば、多分、それは、「人がどう言おうが、人がどんな
経験をしていようが、それは他人の言葉、経験。私に今必要なのは、
自分自身の経験。」と思ったからなんだと思います。



ここ1-2年、やっとまた少し本を読むことが出来るようになりました。

本から得るものもとても大事。インスピレーションや知識をもたらして
くれる。

でも、私の場合、明らかに自分としての経験が足りなすぎたんだと思い
ます。そんな時に本を読んでももっともっとバランスが崩れるだけ。
頭でっかちになって、精神的に不安定になる。「わかってる」という思い
ばかりが強くなって、緊張感が生まれる。


「千載不朽」の意味にもあるように(↓下記説明を引用しました)
才は「表面的な才能や能力」。私に必要だったのは「徳」の部分
だった、ということです。

おじいちゃんがこの言葉をお年玉の袋に書いてくれている時、
字を書くことも読むことも出来なかった”学のない”おばあちゃんは、
塵ひとつない家を、またお掃除していました。

いつもきれいに掃除された家、ピシッとたたまれた洗濯物。
そして近所の方には笑顔で大きな声であいさつをする祖母。

祖母の最期は、全く徳に満ちた人にしかできない、素晴らしい
死にかたでした。

全てはバランス。

”おじいちゃん”と、”おばあちゃん”の中庸を生きられるように
なりたいな。


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 *「千載不朽」とは

「いつまでも朽ちずに残ること。

価値を失わずに永遠に残ること。
名声や事業がはるか後世まで伝わること。
載は車+戈+才。

才は川の流れをせきとめる堰を描いたもの。
禹の治水事業に見えるように古代では川の氾濫など水害は災いの最たるものであり、これを制することから才能の「才」の意味となる。

また、戈は古代の武器を示す。
よって、戈+才で断ち切ってとめるの意をもつ。
これに車がつくことで「載」となり、車の荷が落ちないようにしっかりと止める意味となる。」

「才」とは

「表面的な才能、能力。

知識や弁論、詩文などの付属的な能力。
己に付したものであって、己本来のものではない。
尚、人物の分類として才と徳の大小によって論じることがある」


語彙辞典」より引用させていただきました。


















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2012/03/16

「気づき」と「平静さ」

ヴィパッサナの修行の中で、繰り返し、繰り返し語られること。

「『気づき』と『平静さ』は荷車の両輪。
どちらも同じように育てていくことで、まっすぐに進むことが出来る」


繰り返し、繰り返し、何度も何度もこの言葉を聞いているはずなのに、
私は去年の10日間コースの時に初めてこの言葉の重さに気が付きました。

それはきっと、私の中でやっと少し「平静さ」が育ってきたからだと思います。

「平静さ」って何なのかが分からなかった時には、いくら同じ言葉を聞いたって全く理解できていなかった。やっとその片鱗に触れることが出来て、この言葉の示すことがいかに大切なことなのかがようやく少し感じられるようになったのだと思います。

私は明らかに「気づき」の車輪が大きくて、「平静さ」の車輪は無いに等しい人だったな。
今になってようやくわかる。

-あっ、大きいって言っても「平静さ」の車輪に比べてってことね。全然気づきのレベルは低いんだけど・・・(汗)-

ヴィパッサナーに出会い6年ちょっと。
「修行が足りない」という言葉を心の中で繰り返す自分がいます。




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2011/11/28

「疑い」という”不純”

今年5月に瞑想の10日間コースで坐った時に、瞑想を始めて以来
初めて気がついたことがありました。

それは「疑い」というのは心の”不純”であるということでした。


今まで数回10日間コースなどを坐りましたが、その最中に毎回必ず大きな「不安感」や「疑いの気持ち」が湧き上がり、私はそれに圧倒されてきました。その気持ちを受け止めることができず、完全に平静さを失っていました。

普段はそんなに不安や疑いの気持ちに苛まれることはないのですが、コースに参加して瞑想が深くなっていくにつれ、毎回このような気持が湧き上がってくるという経験が繰り返されて、やっと、「もしかして、これは私の中にある”パターン”なのではないか?」と客観的に受け止められるようになってきました。

具体的には

「私がやっているやり方は間違っているのではないだろうか」

「本当にこれで良いのだろうか?」

「みんなは正しく出来ているのに私は出来ていないからいつまでたっても進歩がないんじゃないか」

というような気持ちが大きく大きく膨らんできて、その力に圧倒されてしまうのです。完全に平静な心を失います。

しかし、やっと今年になって

「まあ、いいか、この修業はどうせ一生続けていくんだから、やり方が間違ってたならそれに気が付いたときに直せばいいんだし、他のみんなが出来て私が出来なくったって、私が一歩でも進むことが出来ればそれで良いんだし。気長に、気楽にやろっと♪」

と思うことが出来たその時、心は本当に穏やかで安らかさに満ちました。

そして、その日の夜の講話の中にこのような言葉がありました。
「疑惑は大きな敵。心が疑いの念にとらわれている限り、この道を一歩も歩みだすことはできない。疑いは心のimpurityなのです。」

この修行法への疑い、そして何より「自分自身への疑い」。そしてそこからくる不安。これが心の"impurity"(不純、不道徳)なのだと語られたその言葉は私の心にグサリと突き刺さりました。

私はこれまで自分自身をこれほどまでに疑ってきたのだ。そして同じように周りの人、周りの世界も疑ってきたんだ。

それを認めることができた瞬間でした。

怒りや嫌悪、憎しみなどは”不純”だと思ってた。
でも「疑い」が”不純”だとは全く思っていませんでした。
そしてその不純は私の心に深~く深~く根を張って、大きく大きく成長し、私はその”不純さ”に絶え間なく振り回されていたのです。

ああ、なんという無知。

ヴィパッサナーとは「正しい方法で見る」という意味。
無知を克服する修行です。

私はまだ全く”盲目”の状態なのだな、と改めて感じます。

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10日間コースでは毎晩1時間ほどの講話を聴きます。これは自らが実践している修行をより良く理解するためのもので、毎回参加するたびに同じ内容のものを繰り返し聞きますが、不思議なことに毎回新しい気付きがあり、まるで初めて聞くような内容にびっくりすることがあります。

この時もまさにそう。何度も、何度も聞いているはずなのに、こんなに胸に突き刺さったのは初めてのことでした。

こんなことが起きるのは、私がそのことについてきちんと理解できるだけの”経験”をしていないからなんですね。自らの身を以て体験してたことだけしか理解することは出来ない。

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今年見た映画。「アメイジング・グレース」
(音声鳴ります)

この映画、好きな俳優さんが出ていたこともあって喜び勇んで見に行きましたが、感動で心が震えました。

正しい心、正しい生き方、人として正しい道とは何か、深く心に刻まれました。

奴隷を運ぶ船の船長を20年務めてきた男が、その罪を悔い、神職に身を捧げる人生を送りつつ書いたのがこの歌詞だそうです。

Was blind, but now I see
「見えなかった目も、今は開かれた」

私も、少しでも”正しく見える”人になりたいと、
これからも修行を続けようと思います。

≪Amazing grace≫

Amazing grace! how sweet the sound   驚くほどの恵み、なんとやさしい響きか

That saved a wretch like me        私のようなならず者さえも、救われた
I once was lost, but now am found       かつて私は失われ、いま見出された
Was blind, but now I see.                     盲目だったが、今は見える(心、たましいの目のこと)

'Twas grace that taught my heart to fear    私のこころに畏れることを教えたのは恵み
And grace my fears relieved                     そして、私の恐れを解放したのも恵み
How precious did that grace appear        なんと素晴らしいことか
The hour I first believed                           私が最初に信じたときに現れたその恵みは

(この訳はamazing grace storyというページを参考にさせていただきました)









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2011/11/22

朝のトーク

私たち夫婦はよくおしゃべりをする夫婦だと思います。

自分が思っていること、感じていること、をとにかくよく話します。

朝1時間の瞑想を終えた後の食卓で喋ることは、朝から結構濃ゆ~い内容であることが多く、そのトークから得られるインスピレーションはとても大きいです。

今朝のトークはこんなことでした。

私は普段とても理論派で冷静沈着で、理屈っぽいという印象をもたれることが多いのですが、実のところ私の行動を振り返ってみると、とっても感覚によって発動することが多い、のです。

自分にとって必要なことを嗅ぎ付けて、行動する。
家を買うのもそう、仕事で何をやるかを決めるときもそう。去年の春からしばらく仕事を休む、という決断をした時もそう。

「何かこれは良いぞ!」という感覚を受け取ったらもう自然に体は動くし、逆に「何かこれはおかしいぞ」と思うともう無理に体に言うことを聞かせて動かすことは不可能になってしまう。

人の行動はすべて潜在意識のもとで決められてるから、理屈は後付け。
意識は「自分がとった行動をどう説明するか」というだけのこと、というのがとてもうなずけるんです。

(「脳はなぜ「心」を作ったか」の本を最近読んで、我々が感じていたことが書いてあったのでとても納得しました。

  )


それでもなお、私がとても理路整然と動いているように見え、はた目からは理屈、理論を外さない人間に見えるのか?

それは”検証”という作業を常にやっているからなのではないか?という話になりました。

感覚を感じて衝動的に行動をとる段階に至ると、私はそこでさまざまな検証をします。

”これは自分のライフスタイルと一貫性があるか”
”道徳律に反しないか?”
”これをやることで何を得られ、何を失うのか?”
”これをやらないことで何を得られ、何を失うのか?”

私はどちらかというと鳥瞰図的な見方をするのが苦手なので、時によっては夫や友人、その他の人たちのアドバイスを求めることも多々あります。

そしてそれが自分の感覚と違和感がなければ行動をとる。

そうやって感覚からの衝動に、ちょっとブレーキをかけて”検証”をしたあとにGO!となるときもあれば、検証の結果”やめる”という行動をとることもある。

これが私たちが理論派で理屈を外さないという印象をもたれる所以ではないか、ということに気が付きました。


あくまでも自分の出した結論が、自分の感覚と自分の検証に基づいていることがとても大事で、そこに他人の価値感などが強制介入していないことが大事。

バッチ博士はこのような言葉を残しています。

「他の人の干渉を許すことが、私たちに自分の魂の声を聞くのをやめさせ、不調和と病気を引き起こします。人の意向が心に入り込んだ瞬間、私たちは自らの本当に進むべき道から外れてしまうのです。」

嫌だなあ、と思うことを理屈で抑圧して続けることは自分を害します。かといって、嫌だと思うことにすべて反発しつづけることはそれも自分を害します。

それをありのままに受け入れ、そして平静心を失わないという技。
これを身につけられるのがヴィパッサナー

この瞑想法で身につけていく技はやはり”生きる技”なのだ、と心底思います。


**************

今日は良い夫婦の日、だそうですね。

私たちにとって”良い夫婦”でいられるコツはたくさんおしゃべりをすること。

それぞれの夫婦にそれぞれの”コツ”があると思います。
それを大事にして、仲良く平和な家庭が築けると良いな、って思います。






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ただいま!

20日の夜に京都から戻りました。

今回の10日間コースは、今までの6年のさまざまなことがやっと理解でき、これでようやく修行の入り口に立てたという感じでした。

・・・って毎回、こんなこと言ってる気がします。

それだけ”己を知る”道は長く長く、ゴールは遠いのだなぁ、と思います。

でも一歩一歩これからも着実に歩いていきたいです。



サヤジ・ウ・バ・キンの伝統のもと
S.N.ゴエンカの指導によるヴィパッサナー瞑想

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