学び 気づき・・・、ヴィパッサナー瞑想
2011/11/08
恒例の・・・・行ってきます♪
明日から瞑想コースに行ってきます。
今回は久しぶりに京都の瞑想センター。
夫と2人で参加してきます。
毎年大体年に1回の参加ですが、今年はこれが2回目の10日間コース。
11月9日から20日まで連絡が取れません。
みなさまにはご不便をおかけしますが、どうぞご了承くださいませ。
では、行ってきまーす♪
今回は久しぶりに京都の瞑想センター。
夫と2人で参加してきます。
毎年大体年に1回の参加ですが、今年はこれが2回目の10日間コース。
11月9日から20日まで連絡が取れません。
みなさまにはご不便をおかけしますが、どうぞご了承くださいませ。
では、行ってきまーす♪
2011/10/04
私は主婦のお仕事が好き♪
私は主婦のお仕事が大好きです。
家族が気持ちよく家で寛ぎ、安心してもらえるように。
美味しい食事を楽しんでもらえるように。
いつも気持ちよく生活が出来るように。
そういう家での時間を過ごすことで健康でいられるように。
そして、外で精いっぱい自分のなすべきことを
出来るように。
そういう礎となる場所を創る、そんな魅力的な仕事は
他にない!と思うからです。
秋晴れの続くような日は、自分が主婦であることを最高に
幸せだと思います。
夫が出かけた後、ベッドルームを換気して、お布団を
お日様に当てて、湿気を一掃。
近所から香ってくる金木犀の香りに包まれながら
洗濯ものを一つ一つ干す。
宅配で届く自然農法のお野菜を受け取って、「今日は
何がきたかな~」と野菜たちとご対面。あれを作ろうか?
これを作ろうか?と妄想が膨らむ時間。
お掃除もひと段落してパソコンに向かって足湯をしながら
お仕事タイム。
自分自身が幸せであって初めて、周りの人に幸せを心から
願い、そのために積極的に行動できると思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近立て続けに数人の友人から同じ話を聞きました。
いずれも主婦のお友達。旦那さんと仲良し♪なので
普段からとてもよく会話をしますが、最近旦那さんの
お仕事が忙しくて帰りが遅い日が続くとのこと。
ご飯を用意していても、食べられない日が続いて、
作った方もがっかりしてしまって、機嫌が悪くなっちゃう
事も。
だんなさんに八つ当たりしちゃったりして、自分が
嫌になっちゃう、というお話でした。
以前我が家も夫は相当多忙だったので、私はすべて
彼のペースに合わせていました。何をやるにも彼を
優先。それはそれで役割分担なので、ストレスなく
過ごしていました。
現在、私はクッキングサークルなどのお仕事を楽しく
しています。なので、全部彼のペースに合わせるのは
無理。合わせようとすると自分のペースで仕事や家事が
出来なくなってイライラ(>_<)という結果になります。
私は去年から自分の時間割に従って生活することにして
います。なぜこれをはじめたかというと、去年の夏に
肉体改造(笑)をするにあたって、夕飯を必ず7時までには
食べ終えるようにしたかったからです。
今まで夕飯は夫を待つこともあれば、仕方なく一人で
食べることもあり、どっちつかずでした。
なので、6時になったら(今は7時)夕飯は一人で食べる。
夫が帰ってきたらそのタイミングで食事を出して、私は
食卓でお茶など飲みながら会話をする。
8時半からは瞑想。
9時半過ぎから入浴。
10時半には寝られるように、というのが理想の
生活です。
実際は、9時ごろ瞑想中に夫から「帰るコール」が
あることも。そういう時は瞑想をやめてご飯の支度
をし、帰宅後一緒に食卓について、その後一緒に
瞑想1時間。
そして入浴して就寝、となるので、12時前後に寝ること
の方が多いです。
このスケジュールは私の希望を決めた後で、夫と話をし、
2人で了承して実行しています。
こうしてから、本当にストレスが減りました。
夕飯を食べずに、待とうか、食べようか?とか、
今瞑想しちゃったら帰ってきちゃうかな?とか、
そういう余計なことを考えずに済むようになったからです。
私は以前「時間割」を決めて動くのが本当に苦手でした。
自分で決めたことなのに、決めたそばからその決め事を
疎ましく思うタイプでした。(なんと自分勝手・・(笑))
でも、今はこうして時間を決めて行動することの気持ち良さを
味わっています。
最近は朝の時間もまずまずしっかりできています。
6時半起床後、すぐに瞑想1時間。
そして朝ご飯。
夫が出かけた後、9時半まではお掃除などの家事。
その後はお仕事したり、お出かけしたりと自由行動。
とても快適です♪
時間割があんなに嫌いだった私がねえ~、と思う
今日この頃。”きちんとすること”に何かしらの
嫌悪感があったんだろうなあ。
あと、決めてもきちんとできない自分への怒りとか。
一度決めると文字通りきちんとできないと、そういう半端な
自分が許せないという”自分への完璧主義”が根強く
あったんだと思います。
最近は1度や2度出来なくてもまた新たな気持で取り組めば
いい、っていう余裕が出来たんですね。自分なんてそうそう
ちゃんと出来る人間でもないし(^-^)っていう良い脱力が
出来るようになった。
これは瞑想を続けているからに違いないです。
どんどん自分が楽になっていく。
修行って本当に良いものですよ。
家族が気持ちよく家で寛ぎ、安心してもらえるように。
美味しい食事を楽しんでもらえるように。
いつも気持ちよく生活が出来るように。
そういう家での時間を過ごすことで健康でいられるように。
そして、外で精いっぱい自分のなすべきことを
出来るように。
そういう礎となる場所を創る、そんな魅力的な仕事は
他にない!と思うからです。
秋晴れの続くような日は、自分が主婦であることを最高に
幸せだと思います。
夫が出かけた後、ベッドルームを換気して、お布団を
お日様に当てて、湿気を一掃。
近所から香ってくる金木犀の香りに包まれながら
洗濯ものを一つ一つ干す。
宅配で届く自然農法のお野菜を受け取って、「今日は
何がきたかな~」と野菜たちとご対面。あれを作ろうか?
これを作ろうか?と妄想が膨らむ時間。
お掃除もひと段落してパソコンに向かって足湯をしながら
お仕事タイム。
自分自身が幸せであって初めて、周りの人に幸せを心から
願い、そのために積極的に行動できると思います。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最近立て続けに数人の友人から同じ話を聞きました。
いずれも主婦のお友達。旦那さんと仲良し♪なので
普段からとてもよく会話をしますが、最近旦那さんの
お仕事が忙しくて帰りが遅い日が続くとのこと。
ご飯を用意していても、食べられない日が続いて、
作った方もがっかりしてしまって、機嫌が悪くなっちゃう
事も。
だんなさんに八つ当たりしちゃったりして、自分が
嫌になっちゃう、というお話でした。
以前我が家も夫は相当多忙だったので、私はすべて
彼のペースに合わせていました。何をやるにも彼を
優先。それはそれで役割分担なので、ストレスなく
過ごしていました。
現在、私はクッキングサークルなどのお仕事を楽しく
しています。なので、全部彼のペースに合わせるのは
無理。合わせようとすると自分のペースで仕事や家事が
出来なくなってイライラ(>_<)という結果になります。
私は去年から自分の時間割に従って生活することにして
います。なぜこれをはじめたかというと、去年の夏に
肉体改造(笑)をするにあたって、夕飯を必ず7時までには
食べ終えるようにしたかったからです。
今まで夕飯は夫を待つこともあれば、仕方なく一人で
食べることもあり、どっちつかずでした。
なので、6時になったら(今は7時)夕飯は一人で食べる。
夫が帰ってきたらそのタイミングで食事を出して、私は
食卓でお茶など飲みながら会話をする。
8時半からは瞑想。
9時半過ぎから入浴。
10時半には寝られるように、というのが理想の
生活です。
実際は、9時ごろ瞑想中に夫から「帰るコール」が
あることも。そういう時は瞑想をやめてご飯の支度
をし、帰宅後一緒に食卓について、その後一緒に
瞑想1時間。
そして入浴して就寝、となるので、12時前後に寝ること
の方が多いです。
このスケジュールは私の希望を決めた後で、夫と話をし、
2人で了承して実行しています。
こうしてから、本当にストレスが減りました。
夕飯を食べずに、待とうか、食べようか?とか、
今瞑想しちゃったら帰ってきちゃうかな?とか、
そういう余計なことを考えずに済むようになったからです。
私は以前「時間割」を決めて動くのが本当に苦手でした。
自分で決めたことなのに、決めたそばからその決め事を
疎ましく思うタイプでした。(なんと自分勝手・・(笑))
でも、今はこうして時間を決めて行動することの気持ち良さを
味わっています。
最近は朝の時間もまずまずしっかりできています。
6時半起床後、すぐに瞑想1時間。
そして朝ご飯。
夫が出かけた後、9時半まではお掃除などの家事。
その後はお仕事したり、お出かけしたりと自由行動。
とても快適です♪
時間割があんなに嫌いだった私がねえ~、と思う
今日この頃。”きちんとすること”に何かしらの
嫌悪感があったんだろうなあ。
あと、決めてもきちんとできない自分への怒りとか。
一度決めると文字通りきちんとできないと、そういう半端な
自分が許せないという”自分への完璧主義”が根強く
あったんだと思います。
最近は1度や2度出来なくてもまた新たな気持で取り組めば
いい、っていう余裕が出来たんですね。自分なんてそうそう
ちゃんと出来る人間でもないし(^-^)っていう良い脱力が
出来るようになった。
これは瞑想を続けているからに違いないです。
どんどん自分が楽になっていく。
修行って本当に良いものですよ。
2011/09/16
ここ数日の出来事
数か月前から「定食屋さんやろうかなあ~」って
漠然と思っていました。
お料理教室でしか食べてもらえない私のお料理を
もっと多くの人に食べてもらえたらいいな、なんて
ちょっと思ったりして。
以前からお世話になっている近所の不動産屋さんで
ちょっとそのお話をしたら、なんと家から徒歩3分の
ところに手頃なスペースが出たとのこと。
早速見に行ってみました。
見てみると、大きさはちょうど我が家のリビングと
キッチンを合わせたような大きさ。私がイメージしていた
のとぴったりな大きさでした。
それからというもの、頭が目まぐるしく動き、この
スペースを借りるべきか、借りずに今まで通り我が家を
仕事場としていくべきか、ものすごい勢いで考えに
考えました。
自宅のリビング&キッチンでお教室をしたり、セミナーを
したり、イベントをしたり。我が家に来てくださる皆さんは
この家は本当に落ち着く、と口々に言ってくださいます。
3日間、さまざまな人と会って、いろいろなアドバイスを
頂き、「う~んう~ん」と考えて、3日目の夜、私にとって
料理教室というスタイルを通じて出会う方たちとの一つ一つの
出会いや、パーソナルケアを通じてお互いに手を取り合って
歩いていくそのつながりが、かけがえのないものだということを
再認識しました。
外に場所を借りて活動をすることはそれらの大切な時間を
失うことになる、と実感した瞬間に体に起こった大きな
感覚はびっくりするほどのショッキングな感覚でした。
その感覚を味わった次の瞬間、答えは出ていました。
私はこの場で活動を続ける。そして、もっともっと
この私にとって大切な時間を増やしていきたい。
考えに考えていた3日間、ものすごく苦しい感覚が
自分と共にありました。そして答えが出た瞬間その
感覚から一気に解放されました。
今は何事もなかったかのように元の自分に戻って
います。
決断を下すためにたくさんの人たちのアドバイスを
頂きました。いろいろな方に支えていただいて、
本当に感謝です。そういう一人一人の方が私の
周りにいてくださることが大きな大きな財産なのだ
ということに気が付けたことも、今回の出来事を
通じての大きな収穫でした。
✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿
一つの決断をすることはそれがどんな小さなことで
あってもその人にとって大変な作業です。
堂々巡りになり、頭ばかりが疲れて、挙句の果てに
何をどのように考えればよいのかすら分からなくなったり
します。
今回3日間でこんなにすっぱりと結論が出せたことは
私にとってとても驚く出来事でした。考えていた
時の体の感覚と、答えを出した後の体の感覚は
全く持って違う感覚。
ああ、悩んだり考えたりしているときって、こんなにも
苦しい思いをずっと抱えているんだな、って実感しました。
瞑想の修行を積んで、いつも自分の感覚に気づいていられる
ようになると、決断力、判断力が研ぎ澄まされ、そして
その判断が常に優れているのだ、というお話を瞑想コースの
講話の中で聞きます。
判断が常に”優れている”とは、自分にとっても、周りの
人にとっても害のない、むしろすべての人の幸せに通じる
判断が出来るようになる、ということ、だそう。
そんな素晴らしい知恵を、悟りに近い人たちはもっている
のだろうなあ~。
実際、瞑想の先生たちはいつも温和で、いつも優しくて、
ユーモアのセンスもあり、そして冷静で偏りがなく、
押し付けのないお話をしてくださいます。
そういう方たちと接するたびに、本当に素晴らしい方
たちだなあ、と心の底から尊敬します。
一歩づつ、その一歩は非常に小さな一歩だけれど、せめて
後退はしないように道をあるいていけたらいいな、って
思います。
「自分を苦しめず、他者を傷つけることもない、
そんな言葉だけを語れ。
それこそが『正しく語られた言葉』というもの
である。」
(スッタニパータ(経集)の言葉)
漠然と思っていました。
お料理教室でしか食べてもらえない私のお料理を
もっと多くの人に食べてもらえたらいいな、なんて
ちょっと思ったりして。
以前からお世話になっている近所の不動産屋さんで
ちょっとそのお話をしたら、なんと家から徒歩3分の
ところに手頃なスペースが出たとのこと。
早速見に行ってみました。
見てみると、大きさはちょうど我が家のリビングと
キッチンを合わせたような大きさ。私がイメージしていた
のとぴったりな大きさでした。
それからというもの、頭が目まぐるしく動き、この
スペースを借りるべきか、借りずに今まで通り我が家を
仕事場としていくべきか、ものすごい勢いで考えに
考えました。
自宅のリビング&キッチンでお教室をしたり、セミナーを
したり、イベントをしたり。我が家に来てくださる皆さんは
この家は本当に落ち着く、と口々に言ってくださいます。
3日間、さまざまな人と会って、いろいろなアドバイスを
頂き、「う~んう~ん」と考えて、3日目の夜、私にとって
料理教室というスタイルを通じて出会う方たちとの一つ一つの
出会いや、パーソナルケアを通じてお互いに手を取り合って
歩いていくそのつながりが、かけがえのないものだということを
再認識しました。
外に場所を借りて活動をすることはそれらの大切な時間を
失うことになる、と実感した瞬間に体に起こった大きな
感覚はびっくりするほどのショッキングな感覚でした。
その感覚を味わった次の瞬間、答えは出ていました。
私はこの場で活動を続ける。そして、もっともっと
この私にとって大切な時間を増やしていきたい。
考えに考えていた3日間、ものすごく苦しい感覚が
自分と共にありました。そして答えが出た瞬間その
感覚から一気に解放されました。
今は何事もなかったかのように元の自分に戻って
います。
決断を下すためにたくさんの人たちのアドバイスを
頂きました。いろいろな方に支えていただいて、
本当に感謝です。そういう一人一人の方が私の
周りにいてくださることが大きな大きな財産なのだ
ということに気が付けたことも、今回の出来事を
通じての大きな収穫でした。
✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿✿
一つの決断をすることはそれがどんな小さなことで
あってもその人にとって大変な作業です。
堂々巡りになり、頭ばかりが疲れて、挙句の果てに
何をどのように考えればよいのかすら分からなくなったり
します。
今回3日間でこんなにすっぱりと結論が出せたことは
私にとってとても驚く出来事でした。考えていた
時の体の感覚と、答えを出した後の体の感覚は
全く持って違う感覚。
ああ、悩んだり考えたりしているときって、こんなにも
苦しい思いをずっと抱えているんだな、って実感しました。
瞑想の修行を積んで、いつも自分の感覚に気づいていられる
ようになると、決断力、判断力が研ぎ澄まされ、そして
その判断が常に優れているのだ、というお話を瞑想コースの
講話の中で聞きます。
判断が常に”優れている”とは、自分にとっても、周りの
人にとっても害のない、むしろすべての人の幸せに通じる
判断が出来るようになる、ということ、だそう。
そんな素晴らしい知恵を、悟りに近い人たちはもっている
のだろうなあ~。
実際、瞑想の先生たちはいつも温和で、いつも優しくて、
ユーモアのセンスもあり、そして冷静で偏りがなく、
押し付けのないお話をしてくださいます。
そういう方たちと接するたびに、本当に素晴らしい方
たちだなあ、と心の底から尊敬します。
一歩づつ、その一歩は非常に小さな一歩だけれど、せめて
後退はしないように道をあるいていけたらいいな、って
思います。
「自分を苦しめず、他者を傷つけることもない、
そんな言葉だけを語れ。
それこそが『正しく語られた言葉』というもの
である。」
(スッタニパータ(経集)の言葉)
2011/08/02
7月の出来事
すっかりご無沙汰になってしまいました。
その間、梅干しづくりも順調に進み&天日干しも
終えました。
梅雨明けのじりじりした太陽を見つめながらも、
「なんだか、まだまだ夏らしさが足りないような気がするなあ」
と思いつつも、なんだかこの先この日差しがやってこないような
気がして、天日干しに踏み切りました。
無事に天日干し終えられて良かったです。
それから、7月は、夫の誕生日がありました。
外に食事に行くよりも私の作る普通のご飯が良い、と
いうので、いつも誕生日のご飯はおうちごはん。
みょうがやしし唐が好きなので、そんなおかずも
用意しつつ。最近気に入っている料理を普通に
食べるのが恒例です。
今年は初めて瞑想コースに参加し、無事に初修行を終えて
戻ってきた大学時代の友人も一緒に食卓を囲みました。
彼も7月生まれなので、合同誕生会&修行完遂のお祝い!
18,19歳の頃に知り合った私たち。
友人とももう20年来の付き合いです。
やはり今になって、昔からの友達って本当に良いなあ、って
思います。何も気を使わずに、思ったことをそのまま言える。
ありがたい存在だなあって思います。
これからも縁あってであった人、出会う人、大切にしたいな。
その間、梅干しづくりも順調に進み&天日干しも
終えました。
梅雨明けのじりじりした太陽を見つめながらも、
「なんだか、まだまだ夏らしさが足りないような気がするなあ」
と思いつつも、なんだかこの先この日差しがやってこないような
気がして、天日干しに踏み切りました。
無事に天日干し終えられて良かったです。
それから、7月は、夫の誕生日がありました。
外に食事に行くよりも私の作る普通のご飯が良い、と
いうので、いつも誕生日のご飯はおうちごはん。
みょうがやしし唐が好きなので、そんなおかずも
用意しつつ。最近気に入っている料理を普通に
食べるのが恒例です。
今年は初めて瞑想コースに参加し、無事に初修行を終えて
戻ってきた大学時代の友人も一緒に食卓を囲みました。
彼も7月生まれなので、合同誕生会&修行完遂のお祝い!
18,19歳の頃に知り合った私たち。
友人とももう20年来の付き合いです。
やはり今になって、昔からの友達って本当に良いなあ、って
思います。何も気を使わずに、思ったことをそのまま言える。
ありがたい存在だなあって思います。
これからも縁あってであった人、出会う人、大切にしたいな。
2011/06/22
『幸い』は本当に『幸い』なのかしら?
先日、NHK「鶴瓶の家族に乾杯!」という番組を少しみました。
新潟県小千谷市を訪れる旅の模様が放送されました。
小千谷市は7年前の中越地震で甚大な被害をうけましたが、
そこから復興し、今回の地震&原発の被害を受けた福島県
南相馬市から避難されている方たちを受け入れました。
地域の公民館などで避難生活を送っていらっしゃった方たちが
お話しされている姿が放映されていました。
南相馬市から非難されている方たちは、小千谷のみなさんが
本当に親切で、昼夜を問わず支えてくれたことを感謝している、と
涙ながらに話しておられました。
そして、それを受けて小千谷市の職員の方が、「7年前の地震の
時、全国から支援をいただいて、復興することができた。
我々はただただその恩返しがしたいだけ。『感謝』だなんて
めっそうもない」とこちらも涙ながらに話されていました。
私はこの場面にとても感動しました。
今回の震災は本当に大きな傷跡を日本列島に残したけれど、
助けあいの気持ちや、恩返し、感謝、など一番大事な心のあたたかさ
というものを思い起こさせ、それを行動にするきっかけを与えて
くれたように思います。
人と人とのあたたかい交わり、心の通い合う素晴らしさ。
そういうことってやはり、なによりも感動します。
感動しながら、私はこんな風に考えました。
「小千谷市の職員の方が涙ながらに『恩返しがしたかっただけ』
と語った裏に、どれだけの苦しくつらい経験があったのだろう。
その辛さ、そして大変さを経験したからこそ、その時人から
受けた支援、恩、がこの方の心に深く深く染み入ったのだろう。
だから今回つらい思いをされている方たちに何の見返りも求めずに
手を差し伸べることができる、深い深い慈悲の心をもっておられる
のだろうな。」
慈悲の心、ただ相手のことだけを思い愛の手を差し伸べる。
私は自分の中にこの要素が本当に足りない、ということを最近
強く痛感しています。
エゴが、自我が、行く手を阻みます。
今回の震災。
「幸いにして」私はなんの被害も受けませんでした。
もちろん、全く影響を受けなかったわけではないけれど、
普通に生活できています。
でも、これが本当に「幸い」なのか。
自分が本当に苦しいときに、人が差し伸べてくれる手の
温かさに深く深く感謝し、それを次の時には誰かに同じことを
してあげたい、という強い思いを抱く経験ができたわけでもない。
自分が苦しい思いをすることを通して、「ただただ恩返しが
したい」という見返りを求めない深い愛情を行動に表す、という
経験ができたわけでもない。
自分が今回の震災で無事だったことは本当にありがたかった。
でも、私は無事だったからこそ、深い慈悲の心を知るという
経験はすることはなかった。
エゴを洗い流し、それによって深い慈悲の心を知る経験を
する機会を逸した-私はこんな風に考えました。
でも。
じゃあ、こういう経験をしなくてはが慈悲の心を育てる
事はできないのか?よく考えてみると、そうとは限らない
のではないかと思ったのです。
本当は、日々の生活の中で、私は多くの人に支えられて生きていて、
常にあたたかい手を差し伸べてもらっている。私は一人では生きら
れないし、何をするにも誰かが力を尽くしてくれた結果を享受して
いる。
そもそも、私は両親の愛情のお陰ですくすくと成長し、家族に
見守られて育ってきた。好きなことをさせてもらい、学校にも
通わせてもらい、今は夫に支えてもらって、自分の自由に
日々を送らせてもらっている。
それに気が付けてないのは、自分の無知のせい。
気が付く能力が足りないせい。
事実をきちんと見る力が足りないだけなのだ。
ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナ」とは「ものごとを
ありのままにみる」という意味。
瞑想は、自分の体の枠組みの中で、自分の体に存在している
感覚をくまなく観察する作業。さまざまな感覚―時には気持ち良い
、好ましい感覚、時には気持ち悪い、嫌な感覚、そして時には
気持ちよくもない、気持ち悪くもない「ふつうの」感覚―を感じ
ながら、どんな時も冷静であり、客観的であり続ける修行。
指導の中で繰り返し言われる言葉。
「気持ち良い、好ましい感覚を使って『渇望』という汚濁を
取り除き、気持ち悪い、嫌な感覚を使って『嫌悪』という汚濁を
取り除きなさい。そしてなんでもない普通の感覚を使って『無知』を
取り除きなさい。」
私の周りには常にあたたかく私を支えてくれる手があり、私を
守ってくれている人たちがいる。そして私を受け入れてくれ、
許し、励まし、導いてくれる人がいる。
そのことにもっともっと敏感でなくてはいけない。
自分の「無知」を滅ぼさなくては。
瞑想の修行はこんなふうに私に気づく力を育ててくれるのかも
知れない。
瞑想を続けるとどんな良いことがあるのだろう?と聞かれても
いつもなんだかはっきりしない答えしか言えないのだけれど、
もしかするとこういう力を育てるものなのかも・・・という
気がしています。
自分が日々、穏やかに日常を過ごすことができることに感謝
しつつ、そんな中でも常に”平和ボケ”せず、「気が付いている」
ことが出来るように。
やはり日々修行なのだ、と思うのです。
新潟県小千谷市を訪れる旅の模様が放送されました。
小千谷市は7年前の中越地震で甚大な被害をうけましたが、
そこから復興し、今回の地震&原発の被害を受けた福島県
南相馬市から避難されている方たちを受け入れました。
地域の公民館などで避難生活を送っていらっしゃった方たちが
お話しされている姿が放映されていました。
南相馬市から非難されている方たちは、小千谷のみなさんが
本当に親切で、昼夜を問わず支えてくれたことを感謝している、と
涙ながらに話しておられました。
そして、それを受けて小千谷市の職員の方が、「7年前の地震の
時、全国から支援をいただいて、復興することができた。
我々はただただその恩返しがしたいだけ。『感謝』だなんて
めっそうもない」とこちらも涙ながらに話されていました。
私はこの場面にとても感動しました。
今回の震災は本当に大きな傷跡を日本列島に残したけれど、
助けあいの気持ちや、恩返し、感謝、など一番大事な心のあたたかさ
というものを思い起こさせ、それを行動にするきっかけを与えて
くれたように思います。
人と人とのあたたかい交わり、心の通い合う素晴らしさ。
そういうことってやはり、なによりも感動します。
感動しながら、私はこんな風に考えました。
「小千谷市の職員の方が涙ながらに『恩返しがしたかっただけ』
と語った裏に、どれだけの苦しくつらい経験があったのだろう。
その辛さ、そして大変さを経験したからこそ、その時人から
受けた支援、恩、がこの方の心に深く深く染み入ったのだろう。
だから今回つらい思いをされている方たちに何の見返りも求めずに
手を差し伸べることができる、深い深い慈悲の心をもっておられる
のだろうな。」
慈悲の心、ただ相手のことだけを思い愛の手を差し伸べる。
私は自分の中にこの要素が本当に足りない、ということを最近
強く痛感しています。
エゴが、自我が、行く手を阻みます。
今回の震災。
「幸いにして」私はなんの被害も受けませんでした。
もちろん、全く影響を受けなかったわけではないけれど、
普通に生活できています。
でも、これが本当に「幸い」なのか。
自分が本当に苦しいときに、人が差し伸べてくれる手の
温かさに深く深く感謝し、それを次の時には誰かに同じことを
してあげたい、という強い思いを抱く経験ができたわけでもない。
自分が苦しい思いをすることを通して、「ただただ恩返しが
したい」という見返りを求めない深い愛情を行動に表す、という
経験ができたわけでもない。
自分が今回の震災で無事だったことは本当にありがたかった。
でも、私は無事だったからこそ、深い慈悲の心を知るという
経験はすることはなかった。
エゴを洗い流し、それによって深い慈悲の心を知る経験を
する機会を逸した-私はこんな風に考えました。
でも。
じゃあ、こういう経験をしなくてはが慈悲の心を育てる
事はできないのか?よく考えてみると、そうとは限らない
のではないかと思ったのです。
本当は、日々の生活の中で、私は多くの人に支えられて生きていて、
常にあたたかい手を差し伸べてもらっている。私は一人では生きら
れないし、何をするにも誰かが力を尽くしてくれた結果を享受して
いる。
そもそも、私は両親の愛情のお陰ですくすくと成長し、家族に
見守られて育ってきた。好きなことをさせてもらい、学校にも
通わせてもらい、今は夫に支えてもらって、自分の自由に
日々を送らせてもらっている。
それに気が付けてないのは、自分の無知のせい。
気が付く能力が足りないせい。
事実をきちんと見る力が足りないだけなのだ。
ヴィパッサナー瞑想の「ヴィパッサナ」とは「ものごとを
ありのままにみる」という意味。
瞑想は、自分の体の枠組みの中で、自分の体に存在している
感覚をくまなく観察する作業。さまざまな感覚―時には気持ち良い
、好ましい感覚、時には気持ち悪い、嫌な感覚、そして時には
気持ちよくもない、気持ち悪くもない「ふつうの」感覚―を感じ
ながら、どんな時も冷静であり、客観的であり続ける修行。
指導の中で繰り返し言われる言葉。
「気持ち良い、好ましい感覚を使って『渇望』という汚濁を
取り除き、気持ち悪い、嫌な感覚を使って『嫌悪』という汚濁を
取り除きなさい。そしてなんでもない普通の感覚を使って『無知』を
取り除きなさい。」
私の周りには常にあたたかく私を支えてくれる手があり、私を
守ってくれている人たちがいる。そして私を受け入れてくれ、
許し、励まし、導いてくれる人がいる。
そのことにもっともっと敏感でなくてはいけない。
自分の「無知」を滅ぼさなくては。
瞑想の修行はこんなふうに私に気づく力を育ててくれるのかも
知れない。
瞑想を続けるとどんな良いことがあるのだろう?と聞かれても
いつもなんだかはっきりしない答えしか言えないのだけれど、
もしかするとこういう力を育てるものなのかも・・・という
気がしています。
自分が日々、穏やかに日常を過ごすことができることに感謝
しつつ、そんな中でも常に”平和ボケ”せず、「気が付いている」
ことが出来るように。
やはり日々修行なのだ、と思うのです。