学び 気づき・・・、ヴィパッサナー瞑想

2015/02/02

30日の瞑想が”非日常”ではない理由・・・

「30日間の瞑想を終えて、どんな感じ?」

結構、いろんな人に聞かれます。

前回の記事でも書いたように、初めて10日間コースに参加したころは
10時間の瞑想を毎日行う日々がとっても非日常で、
「今回はこんな感じだった!」「今回は、こんなことに気が付いた!」とか
思っていました。

いや、年に1度、10日間コースに行ってはいたけれど、毎日の瞑想を
続けていなかった5年ほど前までは、なんだか特別感がありました。

<もちろん、長い時間を費やして自分に向き合う時間を取れること、
取らせていただけることは本当に貴重で特別です。ここでいう「特別」
というのは、「日常とかけ離れた感じ」ということです>

でも、この修行が自分にとって一生続けるものであるということが
心の底にズシーンと落ちてからは、10日間、20日間、あるいは
30日間のコースに行っても、さほど非日常感はなくて、
「うん、精一杯やってきた」、「留守の間、ありがとう」という感じになって。

変化したなあ、と思ってたけど、それが何故か?ということに遅ればせながら
漸く気が付きました。

私がやっているのは「瞑想」じゃないよ。
ブッダの説いた「八正道」を歩む修行なんだ。


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≪八正道って?≫
ブッダの教えを調べるといろいろなページで解説されていますが、
わかりやすい感じだと、こんなページはいかがでしょうか?
「生き方つながるコミュニティー こころーたす」というページ

ブッダの教え=日本で考えられている仏教、ではない、のだけれど、
それでも「仏教でしょ?」と言われるときは、私は強く反論したりはしません(^^)


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10日間コースの始まりの時に、毎回言われてるんですよ。

「あなたたちは、ゴータマ・ブッダが説かれた八つの聖なる道を歩むため、
ここに集まりました」。コースの最初に、こう言われるじゃないの。
なのに、理解してなかったのよね。いや、心の底からの理解が出来てなかったのよね。


私が、瞑想コースを終えた後も、すーっと、ただ日常に戻る感じになった理由。
それは、生活そのものが、日常が、修行だと思うようになったから。
いや、日常でこそ、この修行を日々続け、生かし、学び、努めるものだと
腑に落ちたから。

日々の暮らしが、八正道を意識したものになったから。

八正道の一番最初「正見-自分中心の見方や偏った見方をせず、
物事を正しく見ること」をするための実践がヴィパッサナー瞑想

その、瞑想を毎日実践できるようになったから、瞑想コースが
”非日常”というふうに思わなくなったのだわ、と遅ればせながら理解
したのでした。遅ればせながらすぎてホント、恥ずかしいですけど。

でも、これに気が付けたの、うれしい。

自分への落胆や、心・感情に振り回されっぱなしの状況だったけど
そこに「こうやって生きるんだよ」という道を教えてもらい、それを
素直に”そうだな”って思って歩く努力が出来ているのだから。

素直に”そうだな”って思えるようになるまでに、何年も反抗期を
過ごした自分。そういう反抗心や反発心という心の汚れにも
少しづつ向き合ってこれたから。

ありがたいな、って思う。

日常の暮らしに指針があると、迷いがなくなります。
自分がどう生きていけばよいか。

どう生きると、心が落ち着き、穏やかに暮らせるのか。
人と調和して、慈しみをもっていられるのか。

日常に生かされてこそ、ですからね。
そうじゃないと、ただの逃避になっちゃうから。

・・・・・ひとり言みたいな投稿、失礼いたしました。






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2015/01/30

1か月の留守から戻りました

2014年12月21日~2015年1月21日まで、イギリスのヴィパッサナー瞑想センター
Dhamma Padhanaにて、30日間の瞑想コースに参加してきました。

”ただいまあ~”です。

すっかりご無沙汰し、年末年始のご挨拶も失礼してしまいましたが、
どうぞ今年もよろしくお願いいたします。


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今年でこの修行をはじめて10年になります。

最初のころは、ただ1年に1回10日間コースに参加して、コース終了後は
家でも瞑想してたけど、それもそのうちやらなくなって・・・・というのが四年ぐらい
続きました。

でも、なんで毎年10日間コースに行き続けたか?

それは、やはり、この修行は自分にとってとても大事なことだと思えていた
からだと思います。この修行だけが、今まで出会ったどんなものよりも、
私に押しつけを感じさせなかった(胡散臭くなかった(笑))のです。

瞑想に出会う前、私は自分の心、感情に振り回されていました。

不安、心配、罪悪感、劣等感、人や状況への嫌悪、願っても叶わないことへの
落胆、いらだち・・・・・挙げたらきりがありません。

毎日の暮らしの中で、それらは繰り返し、繰り返し起こり、何かショックなことが
起きようものなら、不安で震え、一人ではいられず、数日かかって漸く普通の
暮らしに戻るような、そんな人でした。

よい人間でありたいと思っても、わかっているのに嫌な言葉を吐いてしまったり、
疑い深かったり。

”普通”のモラルをもった生活をしたいと思っても、それを偽善じゃないかと思ったり、
人の信頼を裏切るようなことをしてしまったり。

自分で自分の心の野獣を全く躾できていなかった感じです。
心のコントロールができないことに、苦しんでいたんだな、と今は思えます。

瞑想を始めてから、少しづつ、本当に少しづつ、心・感情に振り回されないように
なった。十年を振り返って、それが今ようやく実感できています。

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今回イギリスで多くの人に「なんでイギリスに来たの?」と聞かれ、それに
「瞑想」って答えました。決まってみんな驚いて、でも”Cool!"(かっこいいね!)
って言われました。

そこから会話は広がって、
「どんな修行なの?」
「何をするの?」
「やってみてどう?」
っていう感じの話をその度にしました。

そして、ひととおり話をするとみんな「ああ、私にも必要なことだと思う」
「心が落ち着いていること、それは本当に私が求めていること」
「素晴らしいね、私もやってみたい」って言われました。

そう、みんな、みんな、苦しんでるんだ。
心・感情に振り回されて。
不安や怒り、罪悪感や劣等感。
自分でも、どうやって自分の心のこの暴走を手なずけたらよいのかわからない。

みんな、心が静かで、落ち着いていて、穏やかな状態で居たいんだ。
人と朗らかに、笑顔で、助け合って、生きたいんだ。


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瞑想修業を始めてから、時々、思うことがありました。
道徳律を守りながら生きることは、本当に意味のあることなんだろうか?
コース中も、繰り返し繰り返しこの戒律を守ることが大切さを言われるけれど、
なんでこんなに繰り返されるんだろう?


(私たちが修行する瞑想では、以下の道徳律を守り修行することが必要です。
1. 生き物を殺さない。
2. 盗みを働かない。
3.不純な性行為を行わない。
4. 嘘をつかない。陰口、噂話、悪い言葉を使わない。
5. 酒・麻薬の類を摂らない。)

でも、この道徳律を守ろうと心がけることがまぎれもなく「心の落ち着き」に大きく
作用することが自分の経験から実感できました。

ああ、こうして少しづつ、少しづつ、私は心の落ち着きを知り、
暴走していた心を少しづつ、少しづつコントロールできるようになってきたのです。

この修行は苦しみからの解放の道と言われます。
「幸せになる」のではない。
「苦からの解放」なんです。

この道は長い道のりで、やっと数歩進んだに過ぎないと思うけれど、
10年前あの苦しかった気持ちがあったからこそ、この道に出会えたのだと、
これを続けてよかった、と心から思っています。

私も、みんなも、苦しみから解放されますように。
自由でありますように。



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2013/11/15

確信と不信ー二つの翼

[caption id="" align="alignright" width="240"]Flying bird Flying bird (Photo credit: kashyap_hc)[/caption]

最近気が付いたこと。

私は、勇気がある人にとても惹かれる、ということ。

勇気ある行動が出来る人をとても尊敬するし、
勇気溢れる行動を目にすると感動して心が揺さぶられる。

「勇気」。
なぜ、このテーマにこんなにも反応するのか?

それは、自分もそういう人になりたい、ってとても強く思っているから。
そして、私はこの気持ちをずいぶん長いこと持っているということに気が付いた。

勇気ある行動が出来る人は何が違うんだろう。
前回の瞑想の10日間コースの時、気が付いた。
なぜ勇気ある行動がとれるかというと、彼らには「確信」があるからだ。

自分に対する確信。
相手に対する確信。
自然の摂理に対する確信。

だから、心配しないし、不安に思わないし、疑ったりしない。
勇気=確信なんだ。

私は、瞑想コースに行くと、いつも自分の中に積み重なっている「確信のなさ」と対峙している。
毎回、毎回不安や疑いが浮かび上がってくるのを観察しながら、
「確信のなさ」という汚濁が、少しづつ少しづつはがれてきているのを感じてた。

そして、やっと目が向くようになったんだろう。
「確信」という徳に。
その徳を持っている人たちの行動に強く反応する自分に。

まだまだ「確信のなさ」は深く深く私の中に根を張っているけど、
ようやく少し相手が見えてきたって感じかなぁ。ふう。

「汚濁を取り除く作業」と、「徳を積むこと」は同じように見えて実は独立している気がする。
鳥の両翼のように。

どちらかだけやっても片手落ち、という感じなんだなって。
ポジティブシンキングとかっていうのものに違和感を感じる理由が自分の中でようやく理解できた。

確信を持てるような経験を重ねることで、少しは確信が育つだろう。
「小さな成功を重ねる」とかっていうこと、よく聞くことあるからね。

でも、それによって「確信のなさ」を取り除けるなんてことはないんだと思う。
私が今まで生きていて、自分が経験してきた中で、このネガティブさを取り除くことが出来る方法は、
ヴィパッサナー瞑想をおいて他にない。この世には私の知らないいろんなことがあるから、
これは私が知っていることの中で、っていうことだけど。

私は自分が出会ったこの瞑想を続けていきたいって思ってる。
だって、これが私の知る唯一の、汚濁を取り除く方法なのだから。

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2013/05/16

恐怖

ちょっと前に、瞑想友達と話してて、とても興味深い話になった。

それは私自身の中にある「恐怖」という感情について話していた
時のこと。

人に嫌われたらどうしよう、とか、拒まれたらどうしよう、という恐怖。
あるいは”他人に受け入れられない事”への恐怖。

そういう類の恐怖が自分の中にすごくあるってことに気がついて、
やっとそれをあるがままに感じてみようという平静さを持てるように
なってきたんだよ~っていう話をしてた時に彼が言ってたこと。

「この『恐怖』という感情を持つとき、人は行動を止める。
行動することや、前に進むことを止める時、そこには必ず
「恐怖」という感情があるっていう風に言うこともできる、って
聞いたことがあるんだ。」


なるほど~、って思った。

何かに挑戦しようかと思っても、恐怖が頭をもたげると、
行動することを止める選択をする。

例えば、高い崖から下を見て、恐怖を感じれば、
その先に進むことを止めるし、恐怖を感じるからこそ、
そのまま進むことを止める。(恐怖という感情がなければ
そのまま歩いて、落ちて死んじゃうからね。)

この場合、死、への恐怖があるから自分を守ることができる。
自分を安全な場所に置いておくことが出来るのは「恐怖」の
お蔭。

こういう場合、安全な場所、安心な場所を選ぶことはとても
大事なこと。だって死んじゃうんだもん。

だけど、精神的な安全な場所、とか、安心な場所っていうのは
どうなんだろう。

これも、疲れた時や、今は無理って思う場合、「進まない」という
選択をすることがとても大事な時がある。無理することで自分が
耐え切れなくなることが分かってる時に、あえて挑戦を選ぶ必要は
ないと思う。自分がそれと向き合えるようになる、ということに
力を尽くす方が大事だと思う。あと、十分休んだりね。

けど、最近私個人的に思うのが「私、十分逃げてきたんじゃない?」
ってこと。「ずっとこのまま安心・安全から足を踏み出さないというのは
どうなんだ?それは私がやりたいことなんだろうか」って。

今まで私の新しい挑戦を足止めしていたときには、必ず「恐怖」
が共にあったんだな、ってことに気がついた。

なるほどね「今はまだ時じゃない」とか「まだ早い」とか
「私に出来るかな・・・」なんて思ってたのは、なーんだ、
自分が「怖い」っていう思いを隠すためだったんだ、って。

もういい加減、この恐怖をさんざん味わって、楽しんで、
手放す試みをする時なのかも、って感じてる。

自分が持つ「恐怖」という感情を受け入れてこそ、そこから一歩を
踏み出すことが出来るのかなって。

面白いね、こういうの。
ちょっとマニアックな面白さな気もするけど(苦笑)
(こういう「鍛錬系」なのが好きなところも、「なんだかな~」って
思ったりします、最近・・・。)




本日のクッキングサークルで作ったごはん
(山東菜の浅漬け、キャベツの胡麻酢醤油和え、なめたけおろし、きんぴら
小松菜とあぶらげの生姜醤油和え、玄米もちきびご飯&わかめの味噌汁)






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2013/05/09

只管打坐

【只管打坐】
余念を交えず、ただひたすら座禅すること。

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今年2-3月にかけて参加した、20日間の瞑想コース。
10日間以上のコースに坐るのは初めてのことでした。

昨年9月に10日間コースに参加した時、自分の中で、
長期コースに坐る準備が出来た、と感じました。それと同時に
10日間という期間では越えられない壁のようなものを感じました。

どうしても、頭で、理屈で、コントロールしている感じや、
理性で理解しようとしている感じが越えられない。
ただひたすらに・・・という部分がもっとやってみたい。

10日じゃ足りない、もっと長く。
そうして今年、20日間の修行をする機会に恵まれました。

朝4時半から夜9時まで、食事などの時間を除くすべての時間を
ただひたすらに坐る。来る日も、来る日も、視線も上げず、喋らず、
読まず、ただただ一人で瞑想する。

自分に起きていること、湧き上がる思考や感情を一生懸命
理屈で理解したり、整理したりしようとするんだけど、ある時もう
疲れちゃって、「もういいや!」って。

「もう十分やった。もういい」って思えた。なんか1つ壁を越えられた
感じがしました。

頭で考える自分の癖を心ゆくまで堪能出来て、もういいやって
なるまで実感できた。何事もバランスだから、少しバランスとれると
いいな。


只管打座。
ただひたすらに、ひたすらに。
まだまだ自分が知らない世界が果てしなく続いている、
その道を歩くのを楽しみに感じています。









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